architecture

防災広場と修景

火災後2週間後の最初の提案(私案)図

  火災後、最初に集まれたのは、東側2軒分のINBYさんだけであった、当時、YSJNさんは、商売を辞めるという話も出ていた。この段階では、商売を続けて欲しいという事と、新しく出来る景観を菓子屋横丁の新名所になれるような計画をしていきたいという事が確認された。
最初の提案は、火元の土地の方向性が見えない中、私案という形で提案を行った。県道側は、都市計画道路に5〜6m掛かり火元の土地のその部分を川越市に先行取得をしてもらい、防災広場として活用出来ないか?というものであった。
この計画は、結局頓挫したのだが、川越の観光地の最北端に位置し、バスの停留所が既にあり、狭い歩道に多くのバスを待つ観光客が危険な状態におかれていた状況から改善出来る案であった。一番街もそうだが、直線上に並ぶ店舗の間を歩き続ける町の構成から、途中々々に溜まれる空間は必要と考える。そこに緑(木陰)や水やベンチなどが休憩スペースの創出は今後も川越の課題と思われる。
また、修景に関しては、昔の航空写真を観ると、この地域も瓦屋根の長屋が軒を連ねていた事が解る。再分化された敷地を全体で修景する事を提案した。

東ブロック(3軒分)の復興計画案

菓子屋横丁復興計画

 昔の写真からも解るように、この3軒分の敷地は、1棟の長屋であった。2012年に南側の1軒(INBY)は、住宅から店舗への改修を行い、2013年には、北西角の店舗(YSJN)の店舗改装をしたばかりであった。INBYに関しては、2012年改修計画の時に断念した「通り抜け」「製造現場を見せる」を取り入れ、通りだけの商売から、敷地内に引き込んで商売する形式は引き継いだ計画となっている。中庭を開放する事で溜まりと囲いができ、小さなお子さんを買い物をさせつつ、大人は安心して休憩出来る場が出来ていた。通り側には、ベンチを開放し観光客が自由に座る事で、必然的に常に人が居る賑わい演出に効果が有った。
 明治35年 埼玉県営業便覧
 昭和20年
 1958年
1960年