architecture

建物の来歴

土蔵造り+塗屋造り+真壁造りで構成

  この建物に実測調査に入った時、正直良く解りませんでした。新建材で覆われている部分や朽ちている部分、増改築された部分などもあり構成も複雑でどう造られているのか?新建材を剥がしながら、小屋裏にもぐりこんで、全身真っ黒(鼻の中、喉の中まで真っ黒になります...w)になりながら図面に起こして行く事で徐々に見えてきます。
  外観上の特徴としては、西側は寄棟屋根で東側は入母屋造りとなっていて、南西の角を廻るように下屋が南側と西側の道路側にぐるりと廻る構成です。構造的には、西側は、土蔵造りで土壁の厚みは、190mmぐらいで北側前面と2階の西側と南側の西半分が塗られていました。下屋部分は、揚げ戸の跡も残り開放的な造りです。北東側2階は、塗り屋造りで70mm前後の塗り厚で柱梁を覆っています。東側の外壁の凸凹が柱の有る位置です。南東側は、真壁造りで柱は露出した造りになっています。また、転用材を多く使用してあります。大きくは、西側の土蔵造り部分と北東側の塗屋造り部分と南東側の真壁部分の3つ!2階床高さの違いや継ぎ目部分に通しの梁が無いなどの事から3つの建物をここに移築して合体させて一つの建物にまとめた様に感じます。

耐火への意識

進化形の蔵なのでは...

 北西からの風を意識して土蔵造り→塗屋造り→真壁造りとしていると思われる。現在の川越の蔵造りの町並みは、明治26年の川越大火以後の建物がほとんどであるが、大火前のこの建物でも防御が行われている事から、火事に対する考えは、既に確立されていたのでは無いかと思われる。一般的に良く聞く、大火の時に、大澤家住宅が残ったので「蔵造り」=「火に強い」って方程式からの町並みに少し疑問符がつく。伝統的建造物群保存地区内(大火以後の建物)の真壁町家でも北側は塗屋造りとし火に対する意識を見せている建物は幾つかある。方程式に従えば蔵造りにするべきだろうが選択しなかったのは、コストや工期などの要因が多分にあったからなのではないだろうか?
上の写真は、東側の2階壁面で塗屋造りの開口部(工事前)である。土格子の奥にある面は、裏白戸であるが、左側の裏白戸は、表面の漆喰が剥がれ落ち、下地の板が露出していた。この裏白戸は、外部側1分ぐらいしか漆喰が塗られていない。西側の土蔵造りの開口部背面の裏白戸は土から塗られている。この事からも工程数、材料、手間、工期と大きく変わってくる。手抜きではなく、適材適所に防火の意味合いを付けての計画で、むしろ進化形と考える事が出来る。

昭和33年 空中写真
南西角部分の下屋の壁面が隅切りされているようにも見える。
昭和33年 空中写真
現況東側庭の道路側には、建物の下屋がそのまま延長されていた事が読み取れる。