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川越の建物
山崎別邸今日は、知り合いから誘われて、川越市博物館で開かれた「川越の建物2−まちなかの建物をみよう−」の講演会と見学会へ参加してきました。
今回のテーマは、「建築家保岡勝也と川越の近代....山崎別邸を中心に....」で、保岡勝也研究の第一人者の埼玉大学の内田清蔵先生のお話でした。
ん?保岡勝也?...誰?って...。そう、私も正直、その建築家を知ったのは、数年前にある建物の実測調査したのをきっかけに知りました。その後、何の縁かわかりませんが、その建物の復元の設計をやるようになりさらに彼に近づく機会が増えました。とは云え、保岡勝也という人自体の研究がまだ、それほど進んでおらず、ネットで検索してもそれほど出てくるものではなく、今日の、講演会を聞いて、なるほど〜なるほど〜!と思うと同時に、私の抱いていた建築家像と少し掛け離れていました。それは、何故かといえば、今で言う「住宅作家」の顔(これが本筋だったらしい)であったという事だと思います。そして、私が復元をしているものは、住宅ではない。この違いは大きく、大変勉強になりました。
さて、私の話は、置いておいて、保岡勝也氏が設計した建物が川越には、なんと4棟ありました。そのうち、3棟は、現存しており、昨年?川越市が取得した「山崎家別邸」(大正14年)もその一つである。こちらも、数年前に『掃除大会』という企画がありその時に拝見して川越にまだ、こんな素晴らしいものがあるんだ〜って感動したものです。今日改めて、見学へ向ったのですが、庭が整備?されていて、数年前の様子とは、大きく変わってしまった感じ...(なんとなく、イマイチな庭=笑)で....。
それも、置いておいて...。本題へ
  今日、久々に山崎別邸の見学へ行き、玄関入ってホールの左手に「倉庫」がありました。これは、見学禁止で入れませんでした。正直、私は、ここがすごく気になって気になってしょうがなかったんです。他の公開された部分は、前にも見たし、素晴らしいのは、わかったし...(失敬な!)。う〜ん。なんで、この倉庫が気になったか?は、ちょっと前のブログを読んで欲しいのだが、この建物を設計したのは、前途のように、「保岡勝也氏」である。それで、この建物の棟梁は?、資料によると「棟梁 関谷国造」となっているんです。そう、これは、先日実測調査した土蔵(1860年)の「棟梁 五代目 関谷平兵衛」の系列です。元々、山崎家の出入りの棟梁として、「関谷家」が入っていたようなのですが、あの、小屋組みが気になって...気になって....(笑)
先日、実測調査の報告書を文化財保護課へ提出しに行った時に、他の蔵造りの資料を少し見ました。そこで、なんと、見つけたんですよ〜!類似の小屋組みを!これは、ある家の「文庫蔵」が同じ「関谷」家の棟梁でやっていたのです。この文庫蔵は3階建てで、構成は、非常に似ています。ただ、図面も簡単な断面図しかないのと、桁行3間程度だったので、登り梁は使ってるようでしたが、イマイチ何処まで出来ているのか?わからない。(笑)登り梁だけでも成立しそうな感じで...。でも、可能性は、極めて高いと思っており、今回の「倉庫」と呼ばれている部分も中二階及び地下室となっております。これは、建物プロポーション上(外観は洋館)高さが3層分取れないが、スペースは必要という機能上、例の小屋組みが採用される土壌があるからです。まぁ〜張間・桁行とも短いので、あまり効果は、薄いと思うのですが....。いずれにしろ、「関谷家」の棟梁が手がけて建物の小屋組みのルーツが気になるんです。推理は、続くのです。

ん?どんな推理?(笑)う〜我慢が出来ないので書いちゃいます。
昔(江戸時代とかです)の出入りの棟梁というのが旦那とどういう付き合いをしていたか私には、わかりません。(笑)でも、旦那と付き合うには、それなりの技術が必要だったと思うんです。同じ大工でも和小屋しか組めない棟梁と、登り梁を入れた組み方が出来る棟梁では、大きな違いだと思うんです。要するに、この技術は当時、すごい「営業ツール」だったんではないか?という推理です。今回の山崎別邸の設計を保岡勝也氏に依頼した山崎嘉七(四代目)は、保岡の実力を信頼して大正4年に川越貯蓄銀行(取り壊し=現存してない)を始め、大正7年第八十五銀行(現埼玉りそな銀行)大正14年山崎家別邸と依頼してきてるわけで、良いものは、取り入れるという旦那?の血を想像しても間違いないのでは?と思うわけです。
「出入りの職人さん」って言われれば、あ〜そうですか...。で終わってしまうのですが、それじゃ?どうして出入りできるようになったのか?その「きっかけ」が隠れていたら、ただ建物を見て、誰が、作ったとか、すごい材料使ってるとか、古いだとかだけじゃなくて、面白いと思いませんか?
考察の続き その2
kjm070218前回の続きで今日の考察結果(笑=もうしつこい?)前回で触れた小屋束の3箇所の痕跡ですが、何故1箇所しか見受けられなかったのか?が何となく推理することが出来ました。
この写真は、前回と同様ですが、番号を振りました。これは、組んでいく順番を表しています。
@柱を建てる
A登り梁を掛ける
B中引き梁を登り梁の下に設置する。(設置の仕方の考察は、前を呼んでね。)
C軒桁を掛ける
D小屋梁を掛ける
E天秤梁を設置する。(この設置方法は、恐らく中引き梁から吊り上げたと思われる)
ココからが、今日の考察部分
F中央の小屋束を設置する。
  これで、天秤梁も中引き梁も一応、固定される。
G画面向って右の小屋束を入れる。
  この小屋束は、Fで入れた小屋束を支点として、まさに天秤になっているので、比較的入れやすいはずなのです。
H最後がこの画面向って左の小屋束です。

なぜ?Hの小屋束が最後か?と考えたのか...。それは、前回の考察で3箇所の痕跡が付いていた小屋束がHの小屋束だからです。
F・Gの小屋束が入っていると相当最後の小屋束を入れるのは、至難の業だからです。よって、痕跡が残るほど叩いて入れたのでは?ないかと...(笑)

今回の実測調査は、予想以上にはまってしまったな〜(笑)
実は、この小屋組みの組み方をブログで書いてきたが、それとは別で当時の棟梁の勢力図?なども推理をしていました。(爆)これは、ぜんぜんか確証が取れていないので、書けませんが...。いずれにしろ、一つの小屋組みから色々な事が推理できて、もしかして...って考えると147年前にタイムスリップできて楽しいですよ!これを読んで少しでも興味を持った人は、次回から参加して一緒にタイムスリップして推理しましょうね〜!
考察の続き
kjm070216-1さて、先日の実測調査の小屋組みについていまだに考えています。組み方の順番は前回の考察で間違いないと思われます。この写真の白い↑の部分に例の仕口があるわけですが...。なんで?みんな同じ方向に仕口を持ってきたんだ?って事で悩んでいます。(笑)
え?なんで?そんな事で悩むんだ〜?って話もあるんですが...。同じ方向から全て差し込んでいるという事は、色々な振動に対して、一方向(差込方向)は、弱い造りになっているって事だろうと考えるわけです。しかも、前回の話のように、下面は、少し斜めになっているので、鉛直荷重だけでも水平方向に力が働くようになっているわけです...。
kjm070216-2ココで2枚目の写真を見てみましょう。白い↑の部分です。これが見受けられたのは、1本しか見つけられなかったのですが、この小屋束を叩いて入れ込んだ痕跡?なのでは?と推測する訳です。

正直、この糸口を見つけた時は、感動したんですね(笑)でも、ココまでやる棟梁が最初に述べた話を考えていない訳は無いだろう〜って。意匠的には、この仕口が見える側は階段から上がってくる方向と逆につけているので多少の意味は感じますが、蔵の内部でそれが第一の優先事項にはならないだろうと。そうすると何か別の意味があるんじゃないかな〜って悩んでいるわけです。(別にそんなこといいんじゃない〜って声が聞こえてきそうですが...爆)

意匠上の問題が優先事項では無いだろうと先程書きましたが、もし、同じ方向でもこの差し込んだ小屋束が抜けない一工夫をしていたら...と考えると、意匠上見えない方向に全て同じ仕口を仕込んだというストーリーも行けるんでは?...。

そう、この仕口が差し込んだ方向へ抜けなければ、良いだけの話なんだから...。
では、抜けないようにするには、どんな工夫が考えられるか?
今回の小屋組みは、京呂組と折置組を交互に設けたりして非常に凝ったものです。恐らく、その仕口には、割楔なども当然行われていると思われます。そうするとですよ...。この小屋束の下端の仕口にも楔を使っているのでは?しかも抜けないように「地獄ほぞ」の変形版をもちいてる?な〜んて考えたいんです。(希望)
これは、ほぞを打ち抜かずに材同士を緊結する場合に用いられるほぞです。前出の割楔は、打ち抜かれた先端から打つタイプに対し、これは、ほぞ先に楔を付けた状態でほぞ穴に差込みそのまま入ったが最後、内部で割楔分だけほぞ先が広がり、二度と抜けなくなるものです。ちょっとほぞ自体が細いので、楔が入ってるか疑問な部分もありますが、周りに込み栓とかの細工が見受けられないので、もし何かしてるとすれば「地獄ほぞ」だろ〜と。

結局、結論は、出ないんです(笑)でも、何か気になる部分なんです。
棟梁が残したこの仕口!本当は、何も考えていないかも知れないけど...。微妙に見える位置にこの仕口を残しヒントを与えてもらった。でも、その次のステップとして何故?同じ方向にしたのか?「お前はわかるかい?」って声が〜(聞こえないよ〜!)
あ〜本当にレントゲン撮りたいな〜(爆)ハンディーレントゲンとか無いかな〜?
でもな〜レントゲン撮って何にもやってなかったらな〜って思うし(爆)ね。
とりあえず、実測調査の楽しみ方「その1」でした。
二日目の考察
070207-1昨日、今日と行った実測調査も無事に終了することが出来ました。そして、昨日の懸案事項というか...謎?について、今日も、色々と考えながらの調査でした。そして、ついに、その糸口を見つけてしまったのだ〜!(やった〜って感じです。マジで感動?)
それが、一枚目の写真です。昨日の写真の方向と逆から撮影しています。さて、昨日の写真と何が?何処が?違うの?ってことですね。このアングルは、高い脚立の上から取っていますので、床に立って見上げると殆ど気付かない細工があったのです。
昨日の、復習です。登り梁と和小屋が交互に配置されたこの建物の小屋組みをいかにして組んでいったのか?仮定として、柱・登り梁・中引き梁・桁・小屋梁・天秤梁・小屋束の順番という仮定をしたのが昨日までの話です。しかし、昨日の時点では、最後の小屋束が入れられないという問題が残っていたわけです。
さぁ〜ココまでこれば、一枚目の写真を見て解決できましたか?

070207-2ちょっと、話をずらして、登り梁の上部の写真です。画面右下の大きな部材が桁方向に通る1本の中引き梁です。この中引き梁の上に乗る感じで、登り梁が相欠きで組み合わされています。丁度「はさみ」の様な感じですね。
この部分から中引き梁は、登り梁の後にこの位置に来ないとこの小屋組みが成立し無い事が分かります。仮に、先に中引き梁が先にこの位置070207-3にあったとすると、和小屋部分が先に出来ていないと、この中引き梁は、空中に浮いている状態になる。和小屋があるという事は、桁が設置されていないと和小屋が組めない。桁が設置されているとすると、登り梁は設置されていないといけない(爆)って戻ってくるんですね〜!
よって、登り梁を相欠きして、込み栓して、先ず固定して、中引き梁を下から入れている事になります。この下から入れる作業で、恐らくこの登り梁の先端が伸びている部分が活躍?したのではないかと考えます。先端をちょっとづつ伸ばしてあることで、この間の部分にロープを掛けて、中引き梁を引き上げたのではないでしょうか?(お〜!)

さぁ〜!そろそろ、本題へ!ってことで、今日見つけた糸口は、ココ(写真3枚目)です。これは、和小屋の小屋梁(画面下の材)と天秤梁(画面上の部材)と小屋束(画面中央の短い材)です。昨日の時点での問題は、最後に小屋束が入れられないのが問題だったのですが、これなら入れられる。そう、小屋梁に小屋束下部のほぞを横からスライドして入れられるような仕口になっているのが分かりますでしょうか?これで、昨日の仮説が一気に真実味が出てきました。しかも、写真4枚目で観るように、この束の下端は少し斜めに設定してあるのです。他の束もほぼ同様です。下端を斜めに設定することで、束が入れやすくなる訳です。恐らく、束の上端も短いほぞが天秤梁の下面に刺さる感じなので、斜めからそのほぞを刺しながら、上に持ち上げつつ横にスライドさせる(笑)
070207-4いや〜これにて一件落着!本当に素晴らしい小屋組みです。悔しくなるぐらい良い(笑)昔の人は、これを技術として行っている所がさらに悔しさを倍増させている原因だ〜!蔵はいわゆる倉庫ですよ。ココは、茶箱が恐らく小屋組みなんか見えないぐらい一杯一杯入っていたはず。技術が機能を満たしさらにデザイン的に優れている!3拍子揃うなんて...。
今回の実測調査はすごく刺激を受けました。そして、こういう建物がひょんな所に平然と存在しているなんて...勿体無い!と思うと同時に川越の底力を感じましたね〜。江戸時代の技術に負けないものを平成という時代に創りましょうね〜!(歴史の上塗り)今から147年後の人達に....。
実測調査初日
小嶋家実測調査初日が無事に終了です。今日は、総勢8名での調査でした。始めに所有者からの挨拶とこちらのメンバーの紹介などをした後に、この土蔵の歴史を少しお話いただきました。万延元年(1860年)12月16日と棟木に記してあり、棟梁五代目関谷平兵衛と見て取れました。元々は、お茶を販売していたようで、茶箱を保存するための蔵だったとのことです。
さて、昨日のブログにも書きましたが、新しいものとの出会いは、やはりありました。(新しいという表現は、私にとってです。147年も前のものですから〜)
それが、写真です。この土蔵の小屋組みですが...。一見して、ふぅ〜ん!梁が太いね〜とか、中引梁は相当太いね〜とか、そういう事じゃないんです(笑)まぁ〜それもありますが、次に気付くのは、小屋の組み方です。写真で見える一番手前と次ぎの部分は、和小屋と呼ばれ、小屋梁が軒桁の上に架かりその上に束を立てて、天秤梁が載って、左右に母屋、中央に中引梁を乗せています。この中引き梁の上にまた束が建ち棟木が載ってきます。その奥に見える斜めの登り梁がこの建物の端から端まで通る中引き梁に掛かっています。この建物は、桁行方向に5間あるので、端から和ー登ー和ー和ー登ー和という構成になっているわけです。へぇ〜そうなんだ〜!ちょっとデザインしちゃったのね(笑)とかそういう貧相な発想では無いようなんです。
当然、機能的にって事があるようです。どうも、この土蔵は、3階建て?(2・3階部分の天井は、結構低い感じになるが...)の様な使い方で、恐らく登り梁部分は、小屋梁が邪魔だったという事だと思われます。類似の小屋組が近くにあるそうです。

小嶋家実測調査2さて、本題です。(ココまで長かったね〜)
この小屋組みをどうやって組んで行ったのか?という部分が今日の最大の興味を引かれた部分です。単純に考えると、
1・柱が建つ
2.登り梁を掛ける(ちなみに、合掌の先端は、相欠きをしてあります。)
3.桁を掛ける(柱の上に登り梁がのって、その上に桁です。
   →通常?ですと、柱の先端は、重ねほぞとなっており、
   登り梁と桁を貫通して、上部から楔を打って固定します。)
4.中引梁を2の登り梁の下から入れていく
   (この状態は宙ぶらりんなので、サポートが必要です。)
-----ここまでで、登り梁部分は、完成!--------------------
5.小屋梁を軒桁の上の架ける
6.5の上に束を建てる
7.天秤梁を4の梁の下に入れつつ、6の束の上に乗せます。
-----これで完成!----------------------------------------
って話になりそうですが、実は、これうまく行かないんです。(笑)
この順番だと7の天秤梁は入らないんです。
写真を見てもらえば分かるように、天秤梁は、中引梁に食い込んでる(仕口がある)
同時に、左右では、下からの小屋束があるこの束にも当然ほぞが出ていると考えれば、入らないわけなんです。う〜謎だ〜!
他の順番は?というと、先に和小屋部分を作って、登り梁を入れてから、下の柱を入れるという方法もありえるか?これも、柱が全て通し柱で、下部には、土台があるので...現実的な解とはいえないであろう。
う〜ん。悩む悩む(笑)これが特殊解ではない(類似小屋組みが現存している1850年の建物)以上、何かしらの方法があるはずです。

小嶋家実測調査3う〜仕口部分をX線レントゲンで撮影がしたい(爆)
いずれにしろ、この手の組み方は、片方がもう片方を押える留めるという自閉式で大変素晴らしいです。さらに言えば、147年も前の建物なのに、屋根は相当しっかりしたもので、雨漏れの跡は一切見受けられなかったです。蔵造りは、瓦が載って、箱棟がのって、鬼瓦・影盛がのって...と屋根の荷重は相当重いのです(涙)でも、147年という時間の長さがこの小屋組みの有効性を証明しています。これまで、いくつか実測調査に入りましたが、これほどワクワクしたのは、初めてです。明日も頑張りましょう!
明日は実測です。
 今日一日は、結構ず〜っと出たり入ったり(泣)朝早くから深谷方面へ行ってだたっぴろい敷地を見て、帰ってきて、一息ついて、市内数箇所を廻って、帰宅して、また、打ち合わせに出て....。戻って、あ〜明日の準備ってことで備品購入のため外出。まぁ〜働く社会人としては、普通か...(笑)
さて、明日からは、久々に地元NPOでの活動で古い土蔵の実測調査です。
実測調査の楽しみは、いわゆる、新築物件のOPEN HOUSEに近い感覚だと思います。それが、新しいか、古いかの違いで、新しい場合も刺激も受けるが、古いのは、刺激以上に感動と発見があります。普段見慣れた蔵造りの建物が、実は....とか、いつもあそこは、隠れていて見えないんだけど、扉を閉めると昔の職人さんの技や遊び心やデザインというものを観ることが出来ます。同時に、何で?こうしたんだろう?とか、そういう部分を創造して仮定して考えてみるのも面白いです。
この様な活動は、とかく、専門的な分野として見られがち(確かにその部分は大きいですが=笑)むしろ一般の人でも、一度、数日通して参加してもらえればな〜って思います。一回参加すれば、次回もやりやすくなるし、より川越好きになれる?とおもうのだが...。問題は、平日の昼間に調査をするから一般の人は、参加しにくいよね〜。