寛政3年(1791年=220年前)の町絵図「武州入間郡川越南町絵図面」の当地には、「番所」がありその横に都市下水路が流れていた事が記されています。
この都市下水路は、西に延び養寿院境内を通り北に曲がり赤間川に達します。
(寺町通りの養寿院の塀の鉄扉がその部分)
番所には、いくつか種類があり、当地の番所は、町人地の木戸に設けられた「木戸番屋」と呼ばれるものです。前途の町絵図にも記載されている様に、当地の目の前に木戸が設けられ、夜は、閉じられることに成っていたようです。 一般的に、木戸番は夜の四ツ時(午後10時頃)に木戸を閉めました。これは、盗賊や不審者の通行・逃走を防ぐためで、夜四ツ時以降、用事のある者は木戸番に改められた上で、木戸の左右にある潜り戸から通る決まりとなっていた。また、その際には必ず拍子木を打ち、その音が次の木戸番への「通行人がいる」という通達となりました。これを「送り拍子木」と呼びました。拍子木は通行する人数分だけ打ち鳴らし、拍子木の音が聞こえたにも関わらず人が来ないような時は、人を出して町内を改めることになっていました。ただし、医師や産婆など、人の命に関わる急用のある者はそのまま通過できました。盗賊や狼藉者が現れ、そのための捕物、取鎮め等の場合は、時刻に関わらず木戸を閉め、人の往来を止めました。また、物騒な時は大木戸を閉じ、小木戸を開いて用心をしました。一番街でも、このような使われ方をしていたと思われます。